「ゼロ」すらも、嘘。

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「よしおさんの”そんなの関係ねぇ”って自愛だったんだ~」な~んて気づきから、「関係ない」に関する記事を書こうと思っていたんだけど、もうちょっと突き抜けてみた。

ってか、前に書いた

「現実はすべて嘘」

に戻ってきた。

「全部うそ」は、究極のクリーニング

現実をすべて嘘と切り捨てることで、「いま」にいることになるし、

真実が炙り出される。

下記の記事をリライト気味に。

「願望が叶っている」が真実だとしたら、「叶っていない」というエゴの声は、すべてになる。

で、完全に見落としていたんだけど、7章で言っているのは、

「願望がすべて実現していて」、かつ

「”幸せの絶頂”につつまれている」

ということなんだ。

ということは、「幸せ」を感じられていない、エゴというのは「嘘」になる。

嘘塗れなんだから、いま考えていること、感じていることに、何の意味もない。

嘘塗れの世界で-自愛道

今回の大事なとこは、充足を向く必要が、ないこと
充足をみよう、源泉を向こうとすると、その反動を産む。というか、「充足を見よう」とする時点で、そこに不足を感じていることがほとんどであるから、エゴが入り込む余地を産んでしまう。

すべてのエゴを嘘だと切り捨てていけば、勝手に充足しか湧いてこなくなる。

逆にいえば、「充足」的なエゴについては、いくら”嘘”と切り捨てていっても、充足は消せない。それは真実だから。

嘘まみれの世界の底に-自愛道

「この現実は幻想」という言葉を受け入れようとすると、「じゃあなんでこんな幻想なんだよ」ってエゴが納得しないけど、「この現実は嘘」という言葉で、エゴ自身が崩壊し、「真実」があぶりだされる。
その時の、ふぁ~っとした、自分が解放されるような感覚、これが大事なんだろうな。言葉で言えば、安心感になるけど。

その時の「内面」の感覚というか・・・内面というか、エゴが薄れてると、内面しかない、って感じなんだけど。

全部エゴのまやかし-自愛道

ゼロになれずに、またもエゴに屈服。

エゴのしつこさについては、何百回も書いてきたような気がするけど、とにかく今回のエゴも異様にしつこく、何が何でも「否定的・悲観的結末」だけを訴えてくるエゴに対しては、「ゼロになる」ことができなかった。

自分の中に「狂人」がいて暴れ狂い、ひたすら「死への衝動」にひっぱりこもうとする、異常なエゴに対しては、もう「現実を嘘」と切り捨てるしかなかった、それしかできなかった。

なんとかエゴに乗っ取られるのを耐えていた時は、「どうしてこんなに否定的な自分が出てくるんだろう?」という思考も湧いてくるんだけど、もう、それも、嘘に嘘を重ねているものだと、嘘だと切り捨てるほうがよかった。

「無視」のニュアンスの違いかもしれないけど・・・「無視」だと「あるのに目を背けてる」感があるんだけど、「嘘」は、その存在すら疑ってかかっているので、そのほうがスッキリする。

「本願」は、いわゆる「内面」で叶っているので、現実はどうでもいいんだ

「内面で”なって”いるのに、現実が変わらない」なんて、どうでもいいんだ。どのみち、現実なんて嘘塗れなんだから。

結局のところ

自分にとっては、「エゴ」を無視する一番の方法が、「ゼロになろう」ではあったんだけど、結局のところ、どんなメソッドをやったとしても、「エゴ」を無視したとしても、その「基盤」となっている「現実」という絶対的な認識ベースがある限り、数日で元に戻っちゃう。

絶対、内面が基準にはならない。

「内面が真実」という言葉の意味は、「現実が嘘」なんだ。

現実が、ほんとうにどうでもいいものだと思えないと、最終的な主導権は、「現実」を司るエゴにもっていかれてしまう。

だから、エゴをゼロにするのではなくて、現実をゼロにするんだ。

そういう理解じゃないと、自分=世界なんてなれない。

「現実」という枠組みの中で、「自愛」しても、結局、「現実認識という壁」にぶつかってしまうんだ。そんな現実に縛られたまま、「内面の決定」したって、変わるわけがないんだ。

嘘を切り捨てて残るもの

「現実は嘘」という切り捨て方をすると、なんだか、「本願」を手放す・・・ような印象もあったんだけど、まったくそうじゃないんだ。むしろ、内面で叶っていることが、生き生きと感じられるようになる。自分にとって、嘘じゃないものはちゃんと残るんだ。

素晴らしい景色を見たり、美味しいもの食べたりして、「嘘」って切り捨てようとしたって、絶対的に充足は残るよね。むしろ、余計な観念が消えるから、もっとストレートに充足を感じられる気もする。

あと、やっぱ、実践が「楽」なんだよね。

「ゼロになる」をやっていたときも、ゼロになるだけで、勝手に安心感がわいてきたようなところがあるけど、基本的には、ゼロになって、シーンとしてから、イメージングで、充足を重ねていた感じ。ちょっとコントロールが必要になってくるというか。

それに対して「現実は嘘」のほうが、もっとストレートというか、まるで、「現実」という嘘が、光をさえぎっていたかのように、現実に縛られていない自分の意識(源泉?)から、勝手に、本願が叶っている幸福感があふれ出てくるんだ。

「現実は嘘」。これ一本で、全部解決しちゃう。

こまけえさんの「根性」論を読んでからは、なんだか、「苦労して実践する」ニュアンスを勝手に感じてしまっていたんだけど、とにかく、「実践」は、「継続できるか?」が一番大事だと思う。

ぜんぶつながる気がする

前回の「現実は嘘」から時間がたったこともあって、自分の理解も深まっているのか、変に「自愛」とか絡ませずに、ストレートに感じられる。

しかも、この「現実は嘘」メソッド?は、たんに自分の実践に一番向いている、というだけであって、

「関連付けの放棄」ともいえるし、「今にいる」ことにもつながるし、

現実が、ぐにゃんと柔らかくなる感じもするし。

こまけえさんや「現実や現象化がどうでもよくなった」感のある体験談は、何か「認識変更」の結果、そういう状態になれるのかと思ってたんだけど、直接もう、「どうでもいい」にできたんだ。

何かあっても、「まぁ、いいか、どうせ嘘ばかりの現実だしなぁ・・」みたいな。

参考記事

こまけえさんの「そのまんま」な記事。思考だけでなく、五感自体を却下、ってこと。自己紹介を除けば、この記事がアクセストップなのも納得。

「あなたの願いは既に叶っている」と「〇〇〇〇ム〇〇〇」さんら達人が口にした時、それを聞いたあなたはどんな思いに駆られましたでしょうか? おそらくほとんどの方が「いやいや、叶ってねーしwww」であろうかと思います。当然です。現実では「かわいいあの子が彼氏と手を繋いで自分の前を横切っていく光景を今見たばかりなんすよwww」。はい、一旦ストップです。ここで普段から再三私が申し上げていますように無駄な関連付けや、過去の映像だと割り切るのもありなのですが、今回はあらゆるエゴ(思考)の全てを却下するという豪快なアプローチですので、

ここで採用するのは「その光景すらもエゴが感じているものなので、その光景そのものが嘘だ」という認識です。現実の光景を前提とした関連付けの放棄などではなく、現実の光景それ自体を採用しないのです。

「いやいやだってこの目で見たしwww 嘘なわけねーじゃんwww」と間髪入れず思考が被ってきますが、それもエゴの戯言ですから却下です。「そんなこと言ったって目の前に現実があるじゃんwww」。目の前のとか視覚を持ち出してきますが、視覚も当然エゴなのでまた却下です。「ちょっと待ってwww」。待つとかもファンタジーなので、思考(感情)はとにかく全て却下です(以下ループ)。

とにかくこまけぇことを考えずエゴを却下していきますと現実の意味合いが薄れ、消滅していきます。すると何が残るのでしょうか? そうです、ただの認識だけです。その認識は反応としての認識ではなく、現実に干渉されない、主体的な認識世界です(ここは感覚的な表現です。厳密に言葉の意味を捉えようとしないでください)。

そこでは充足でも不足でも、それを「在る」と認識できた時点で、エゴが感じていた現実の定義づけがなくなったわけですから(その障害を幻と見抜いているので)、それが本来の意味での現実となる(知る)わけです。故にタイムラグのない、「願望=実現」(認識した時点で既にある)ということになるのです。

「そんな簡単に却下できないんすけどwww」。だから、却下できるできないと反応をしているその構図(システム)自体が嘘(バグ)なのよ!! その当たり前と思っていた構図が幻だとしたら、後に何が残るか体感してみればいい!! とにかく、五感(現実)ではなく、認識が先!! いい加減わかれ、エゴちんが!!! エゴが定義付ける幻の現実に囚われちゃ、何も変化はしないんですって!!!

現実が消滅すればそこは直結(願望=実現)の世界!!|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

別記事だけど、コメ欄にもいい記事が

まさに、「ゼロになれず」「イメージングもできなく」なってしまった自分を見透かしてくれていたようなコメント。

別に見たい現実も無理に見ようとしなくていいんじゃないでしょうか。
今ぽぽさんの見ている現実って本当でしょうか?その現実(感情含む)がエゴの嘘だったとしたら?しあさんのおっしゃるように、そもそもそんな現実は存在していないとしたら?その悩みも存在してないことになりませんか?
以下の過去の記事おすすめです。
https://komakeekoto.com/shudan/
https://komakeekoto.com/poipoi/
https://komakeekoto.com/chokketsu/
すぐはわからずとも、続けているとカルピスさんのコメントのように「何の理由もないのに妙な安心感」のようなものが浮かびあがってきます。そしたら、もう自分で色々わかってきます。

https://komakeekoto.com/calpissan/#comment-13803

あと、こまけえさんの掲示板4で一人語りしている匿名さんの流れが、すごく自分とリンクしている。

現状、認識の変更はじわじわと進んでいる感はあるんですが、わかっては戻りを繰り返しているような状態です。

それはいいんですが、その過程で願望がなくなったというかわからなくなりました。

ずっと握りしめていた願望があったんですが、要らないという気持ちになって手放し、その後、何も叶えたいものがない状態に虚無感があります。

わざと何か願おうと思っても嫌悪感があります。

願望を持つことや変化を求めること自体エゴじゃないかと感じて、抵抗があるみたいです。

願望とか叶う叶わんとかどうでもええがなって感じなので、認識の変更が進んでる気もしますが、どちらかというとネガティブな感情がひっついてます。

https://komakeekoto.com/掲示板④/#comment-13736

ほんと、まさにこんな感じの週末だった。このときはある意味、「これ以上エゴに汚染されるぐらいなら、本願をあきらめたほうがむしろ楽・・・」みたいな感覚だったと思う。

そして、こちらの記事

段階的に認識変更してる感があるので、整理ついでにシェアさせてください。

今回は、激変さんの感覚が近いです。

自分はずっと過去に対してアクションをしていたんだという気持ちです。
現実は過去なのに、今まで完成したものに対してずっとどうにかしようとコントロール欲求を爆発させてたんだなぁと感じます。

komakeekoto.com/掲示板④/#comment-13763

この「過去」に対してアクションをしてた、って言葉が、すごく重要に感じてずっとひっかかってて、やっと納得いった。自分にとっては、「嘘」に対してアクションしてた、っていう理解になるんだ。

あと、下記のコメント。まだここまでの心境にはなりきれていないけど、いまの延長線上にあると思うし、言葉もすごく励まされた。

最近良い感じです。

「全部関係ないやん(よしおさんみたいな感じ)」ってなってから
理想の人と出会って、理想の関係築けてます。

いかに今まで余計なことを望んでたかわかりました。
あと現実のどうでもよさも。
というか、全部どうでもいいですね。

何もかも全て関係ないし何も繋がってないのを理解してから楽しいです。

上の書き込みのよの様も、ぴーりー様も、何も間違っていないです。
どのメソッドをやってもいいですし、しんどかったらやらなくてもいいです。
エゴを恐れる必要も抑える必要もないですし、恐れても抑えてもいいです。
それら全部、願望が叶っていることと関係ないです。

どれだけ停滞して見えても、どれだけ自分がやってることに自信が持てなくても、常に気づきに近づいてるので大丈夫です。
「叶えたい」「どうにかしたい」というのは立派な意図なので、確実に進んでいます。苦しんで、やっぱだめかもとかどれだけ思ったって関係ないです。停滞はありえません。だから大丈夫です。

https://komakeekoto.com/掲示板④/#comment-13783

実践上では

「嘘」認定によって、関わらなくていい、関わっても無駄、という意識になっている。

あと、「全部うそ」と切り捨てることすら、嘘と切り捨てることもある。

認識変更後のことを語ってるわけじゃねーだろ。
だから、色々方法論はあっても基本的には、エゴの領域から抜けることが実践なんだよ。

で、あぁもともとエゴの領域に’いなかったんだ’みたいな感じで納得するのが認識の変更な。

ごちゃごちゃ’あーでもない。こーでもない’
‘なんでだろう、これこれこういう理由でこうなったんじゃないだろうか’
とか悩むのは全部エゴ。

全部エゴの認識 ー思考から離れて、不足と不可能性を見破り打破しろ : Without the Mind

ほんと、言葉の問題な気がする

tonpei

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