「たった、それだけの事…」

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いやはや、長い旅でした・・・

一言でいえば

「内面を変える必要はない」という内面の変化

が起きた。

ラストは「自愛」

本願に対して、これまでの自分だったら絶対やらなかったような「やらかし」をしてしまい、過去最悪の大ピンチになっていたんだけど、だからこそ、あらためて真剣に自愛に取り組んだ。

その中で、過去の自分振り返って、一番「できてなかった!」って感じたのが、こまけえさんの下記の記事

それでも何とか廃人を抜け出したく、今年に入ってからも相変わらずまとめを読み漁っていたのですが、ある日「もう疲れ果てた。おい、何で今のままじゃいかん?何で変わらないといかんの?」と心の中で反発する声が出てきました。

その声が何となく気になって一度じっくり向き合ってみると、今まで自分は必死に内面や現実を変えようとしていた。まさに「変えようとしなければいけない(=今叶っていない)世界」を延々と作っていたんだと気づきました。
そして、自分の中で気づきがあっても達人の言葉に正誤を求めたり、

「叶った自分ならこう思うはず」「叶ったならこんな事起きないはず」と、

どこか「こうあるべき」と理想の型を作り、そこから少しでも外れていたら自分や現実をダメ認定して、今回も叶っていない、と自然に結論づけていた。

そしてそれがそのまま世界に反映されていたと。

それから自愛に取り組み、「何思おうが何しようがok」と全てを許し続けていたら色んな関連付けが吹っ飛び、あぁ何も変える必要なかったんだ。ここではないどこかを追い求めなくても、今の自分そのまま、どんな自分でもいいんだと心底気づいて、ものすごく楽になりました。(本当に、内面を変える必要はないという内面の変化でした)
過去に私が試みた自愛は、「自愛すれば叶う。自愛できてないから叶わない」とか「自愛とはこうしなければいけない」という観念の上にあったもので、全然違うものだったと分かりました。

さらに、ここは自分だけの世界で、全ての決定権は自分にあるんだから、自愛のどんな自分でもいい。というのも、結局自分がそう決めているだけでは?と思いました。
自分の認識がそのまま世界に反映される。


じゃあ例えエゴまみれでも、現実にボコられても、今の自分そのままでお金持ちで居ていい。とすれば=そういう世界が展開していくってだけのシンプルな事じゃん。本当に内面の決定だけが全てじゃん。
あれだけ強大に見えていた現実も、実は自分の決定に何の影響も及ぼさないペラペラな物だったのか。
もうまとめを読んで答え合わせしなくても、自分の考えや行動全てを正解にしてしまえばいいや。
などと、なんでも自分で好きなように認識すればいいと気づいた事、そのままの自分でいいという開放感で心が軽い毎日になっています。

【読者様からの嬉しいご報告】~自愛でシンプルな仕組みに気づく~

いや、とにかく「赤字」の部分が、すべてなんだけど。

ここ1か月ぐらいの記事で何回か書いてたように、

「こまけえさんたちは、”現実に捉われなくなった”って書いてるんだから、現実に捉われている自分はダメなんだ」

って強く思ってた。

「現実がどうでもよくなった」という心境にならなきゃ、ダメなんだ

「現実を見ているから、現象化しないんだ」

って、無意識に思ってた。

「ゼロになる」「現実は嘘」とか、効果を感じられるメソッドが続いていたからこそ、自分の中の「理想の内面」がわかってきたからこそ、「なんとかやりきらなきゃ!」「実践しなきゃ」って強く強く思っていたわけだけど・・、それが結局「変わらなきゃいけない」自分を生み出し続けることになり。

でも、そんなメソッドが全く不可になるぐらいの、超ネガティブに落ち込んでしまったからこそ、もうこれは自愛しかない・・・と、そこから、自愛を半日ぐらいやって・・・「あ~、ほんとに単純に、そういうことだったのか」って、いまの心境になった。そのままでよかったんだ。

過去最悪だと思っていた現象化も、結局のところ、慌てていたのは自分だけで、現象としても杞憂におわった。いや、むしろ、また絆も深まったと思うし、そう考えると、今回の超ネガティブも、内面の変化を促すために起こった、「神の完璧」じゃないか・・・という気もする。自分の行動に激しく後悔していたけれど、自由意志もなかったのだろうし。

あんな出来事なければ、真剣に自愛に向かい合うこともなかったから。

以下、自愛中に読み直して「あぁ、やっぱりそういうことなのね」と納得した、こまけぇさんの自愛関係の記事。

世に語られています一般的なメソッドとは謂わばルートであり、その様々なルート(メソッド)に共通する目的地が、内面の変化であります。行き着くところは現象ではなく、あくまでも内面であり、メソッドそれ自体では願望実現には直結せず、願望実現を許可できる内面の在り方を形成していくものです。

ただ、このメソッド論も「願望実現を許可できる内面の在り方」という一つの制限であると言えます。つまり、「願望を許可できなければ実現しない」という条件にもなっているのです。そして、自愛(完璧認定)とは、この条件さえも溶解し、現在のありのままの自分を無条件で自分(=世界)に認めさせることなのです。

ある意味、発想そのものは屁理屈に近い開き直りなのであります。「宇宙の根底に流れる真理が『自分=世界』やったら、願望を許可できようができまいが、叶えたってもええやん」というコロンブスもびっくりな逆転の発想なのです。

しかし、これも突き詰めれば、

内面を変える必要はないという内面の変化

が起きているわけで、やはり内面の変化は必要だと言えるわけです。ただ、自愛(完璧認定)はそれを実践している時点で完結と言いますか、その時点で既に内面に変化(認識の変更後の在り方に近い)が起きていますので、どこかで書いたかも知れませんが、私がアンジェラ・アキばりに過去の自分に『手紙~拝啓 廃人の君へ~』を送るのなら、「自愛をしてろ」と一言だけ書くかと思います。

内面を変える必要はないという内面の変化|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

さて、前々回に私は皆さんが願望が叶っていないという前提に立ち、それを叶えようと日々あくせくしているという在り方が習慣化していると書きました。これはつまり、願望の実現には現状からの変化が必須であるという認識に立っているとも言えます。

私も当ブログで口酸っぱく内面の変化を奨励していますが、具体的にどのような変化であるかを申し上げますと「(既に)願望は叶っている」「(これから)勝手に願望は叶う」といったもので、そういった内面形成から導かれる在り方とは、現状からの変化を求めない在り方なのです。


願望は叶っている、または勝手に叶っていくのが現状なら、そこから変化を求めようという発想は出てこないのです。「変化を求めていない在り方=叶っている(叶う)状態」なのです。もうおわかりかと思いますが、これは「現実に囚われようが、何を考えようが今の自分のままでいい」と許していく自愛にも繋がり、なってしまえば現実に起きることは全て叶った後の世界であるという「なる」そのものなのです。

他のメソッドも出発点としては内面の変化を求めていくものですが、行きつく先は

「叶っている(叶う)から今の自分のままでいい」

という境地です。アファメーションは内面に理想を強引にねじ込んでいくやり方ですが、継続していけばその理想が思い込みから在り方に転換し、変化を求めなくなります。思考の観察も、「叶っていない」というエゴの判断を根拠のないものだと看破するもので、「叶っていない」がなくなれば何かをする必要がなくなるのです。また、メソッドそのものとしての効果よりも、メソッドをしている自分の立ち位置に気付いたことで、願望を叶えたなんてパターンもよく耳にしたりします。

どのアプローチであっても、その土台は「自分=世界」です。自分の在り方が鏡のように世界と照応しています。鏡(世界)には屈折なく自分の在り方がそのまま反映されるのであれば、叶えよう(変わろう)とする在り方の矛盾にいつかは気付かなくてはなりません。願望が叶って「変化を求めていない在り方」を欲しているのに、つい無意識に「変化しようとしている在り方」に。あくまで現実は在り方(内面)の飾りなのです。

今、願望が叶っているとすればどのような心持ちで、どのような視点で現実を眺めていますか? その在り方を指針にして、日常の自己の在り方を立ち止まって顧みてみるのもいいかも知れません。

叶っていれば変化を求めませんよね!?|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

思えば私もそうだったのですが、メソッドをする上でドツボに嵌りがちなのは、メソッドをして今の場所から何処かへ行こうとすることなんです。今の自分ではダメだから、超次元の自分にならなければならないと思ってしまうことなんです。でも、これって実は俗世の生き方と何も変わらないんですよね。結局は何かを求めちゃっているんで。

本来はそうではなくて、

メソッドの本質とは今の場所から動かなくても良かったと気づくためですからね(行き着く先は自愛です)。

このままで充足を受け取っても良かったんだと、つまり求めるものは自分の内側にあったんだと知ることなんです。「今の自分じゃ受け取るに値しない」と言い張るスパルタな自分を懐柔して上げる。「もう頑張る必要はない」と抱擁してあげる。不足な自分も、充足な自分も、変態な自分もそれは他でもなくあなたでしかあり得ません。

ゴジラになる必要はない

腑に落とそうとしなくてもいいのです。何か腑に落ちた自分でないと何かを叶えられないと思っていませんか? それがななみんさんの今の立ち位置、在り方であります。

何度か申し上げましたが、それが思考の巧妙さなのです。すぐにGLAYばりに「ここではないどこかへと胸を焦がす」んです。追えば追うほど、追えば追う自分を強固にします。

今の在り方が世界に直結しているのであれば、理想の自分とはどういう在り方なのかということを意識することが大事です。

前々回の補足みたいなことになりますが、理想の自分は何も追い求めない(叶えようとしない)自分のはずですよね。追い求めていたものが既に備わっているという認識ですので。

ですがこう言うと、エゴが「あ、叶えようとしちゃいけないんだ」となり、また「叶えようとしない自分を追いかける(叶えようとする)自分」になりかねず、いつまでたってもループしかねません(もちろん、叶えようとしない自分にスッと入れるなら問題なしです)。ではどうするのかと言えば、追い求めてしまうそんな自分を許し、肯定するんです。

叶っている(叶えようとしない)自分とは現状を肯定している自分です。叶っているんですから、現状から離れたり変えようとしないのです。今のここが叶っている場所なんです。

つまり、追い求める(叶えようとする)自分を許すということは、今の不足まみれの自分でもここ(叶っている場所)にいてもいいと許すことなんです。

自分から叶える世界に行くんじゃないんです。むしろ今のダメな自分から逆に動こうとすると、逆に叶わないのです。今のダメな自分のままを肯定しないと、叶っている世界にいれないのです。

わかりますかね? 言葉にするとややこしいですが、先述した「今の在り方が世界に直結しているのであれば、理想の自分とはどういう在り方なのかということを意識」して試行錯誤すれば、私の謂わんとしていることが理解できるかと思います。

ちなみにメソッド等を否定しているわけではないのでご注意ください。今回も言ってみれば自愛ですから、ご自身に合うものをガンガンやった方が悩むよりは早いです。行き着くところはみな一緒なので。

「ここではないどこかへと胸を焦がしちゃ」ダメなんです!!|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

んでもって、この記事はかっこいいなぁ

求めているのは「叶っている在り方」です。叶っている内面の状態です。この「状態」が世界に反映されます(状態の方がわかりやすいかもと思い使ってみました)。「叶えたい」だと基本、不足が「前提=状態」ですからね(意図ならOK)。

叶っている状態とは求めない状態です。自然体です。つまり不足であろうが何であろうが、求めなければ今の不甲斐ない立ち位置のままでいいわけなんです。

自分が階段を上らなくても、叶った世界に対して「お前が降りてこい、バカヤロー!」と言えばいいだけです。つまり、これも自愛になっちゃうんですけど。

不足を恐れなくてもいいです。逆にその不足こそを叶った証拠にすればいいだけなんで。自分から行くんじゃなくて、お前(叶った世界)が俺に合わせろ的なスタンスで本当にいいんです。

俺が行くんじゃない、お前(叶った世界)が来るんだ!|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

いまは、この感覚もすげーわかる。

「関連付けの放棄」も関連

振り返るといろいろ関連してて、今回の問題が起きる直前には、「現実は嘘」メソッドで気分をねじ込む、っていうのは、結局、「関連付けの放棄」ってことなんだよなぁ、って思ってた。

あと、気づきが大きかったのは「感情」

「既にある」の「充足」の感覚って、感情とはまた違う感覚なんだよな。

だから、「感情」自体を求めていたわけではない。感情自体は、どうでもいい。怒りや悲しみ、苛立ちを感じていたとしても、充足は感じられる。現実=感情の動きに左右されていた部分も大きいから、そこが切り離しやすかったのもあるかも。

まとめ

仕事が忙しくて寝不足だったり、なんか、首や肩もこってるし、全然いい気分ではないんだけど、「あるものはある」って認識は変わらない。

身体が疲れてる時に、無理にイメージングする必要ないし、ってか、もうあるし。

いや、これまでに、イメージングで叩き込んだから、いつでも「ある」って感じられるようになったのかな・・・いや、もともと在ったんだけど、イメージングのおかげで、「ある」ことがわかりやすくなった、という感じかな。

結局、この内面に至るまでには、「イメージング」と、「自愛」の両方の要素が必要だったというか、

イメージングで「すでにある」が確固たるものになったからこそ、「どんな自分でもいい(=なぜなら叶ってるから)」が素直に受け入れられた。現実を無視できるようになったからこそ、「すでにある」もキープしやすくなった

これまでずっと書いてるように「自愛」が苦手、よくわからん、うまくいかない感じで、でも今回は、現実的に「叶うどころか真逆の展開」という観測史上最大の超大型台風にエゴが巻き込まれているときでも、台風の目のように、こころのどこかで「叶ってるとしか思えない」、という感覚はあった。

結局のところこれまでは、「ある」があやふやだったから、自愛の「どんな自分でもいい」は、「願望実現をあきらめる」という感じに受け取ってしまっていたのだと思う。

だから、今は「悪夢の無限ループ」に完全にストップがかかった状態であり。

「叶ってる!」→「叶ってない現実」→「叶ってるから、なんでもよし」

「認識変更できた」→「否定するエゴが出た」→ 「もう認識変更してるから、よし」

で終わり。

これも何回か書いたけど、どこかの段階で「叶っている」という感覚はわかるようにはなってたんだよな。でも、無意識的な生活の中で、いつの間にか、「叶えなきゃ」ってエゴの「ない」に同化しちゃうことが多くて、「ない」ものを「ある」に変えなきゃ、とそこで、条件付けしていた。

でも、そもそもの「ない」が間違いなのだから。

だから、「変わらなくてよかった」んだよなぁ・・・

これで「完結」と思えるのは、もうこれ以上の「言い訳」が効かないから。

「いいよor関係ないor嘘」という自愛系メソッドを挟む必要もない。挟んでもいいし、エゴにまた巻き込まれちゃって、叶ってると思えなくなってもいい。

それすらも「叶っている」世界の中のできごとで、「完璧」の一環なのだから。もう「なる」ではなく、「なっちゃった」ってことかな。

もう少し、言語化もできそうなので、書きたい事は出てくるかもしれないけど、過去の記事を整理しながら、まとめていきたいと思います。

tonpei

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