自愛の極致

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自愛に変化が・・

「エゴから離れる」実践をひたすら続けていて、今までなかったような嬉しい現象化が起こったりしているうちに、ふとしたタイミングで「自愛」もやりやすくなっていることに気づいた。

「ブログタイトルが【自愛道】のくせに自愛苦手」みたいなことは何度も書いてるけど、これまで自分のが自愛をしていると、内面的には

「自分は愛されていないから、自分で愛するしかない」

みたいな「向き」になってしまっていて、「愛されていない」を強化してしまっていたからだ、と思った。エゴがエゴに対して自愛をしているというか。

だから、エゴ(反応的な思考感情)と距離が離れているときに、自愛がやりやすくなっているんだ。

やさしい神様

でもって、自分にとっての自愛って、こういうことだと、改めておもった。

願望を実現させたい、夢を叶えたい・・・と思う時、本来あなたの本質である”意識”としての「意図」だけで十分なのですが、自分の”意識”としての本質をすぐに受け入れられないなら、”神頼み”から入るのもいいかもしれません。(これは「する」ことかもしれませんが、あなたの本質への気づきに直結するものですので、ここで紹介します。)

これは自分でなんとかすることを諦め、すべてを神に委ねる ということです。

神頼みをする時の、頼む対象である”神様”は、

なんとも穏やかで、優しく、あなた個人の過去の努力も知っており、罪を犯したこと、罪を悔やんでいること、自分自身が嫌いなこと、自分の運命を悲観していることなど、

あなたの気持ちを誰よりも分かっており、あなたの奥底にある気持ちもすべて汲んでくれて、その上で、すべてを受け入れ、許してくれ、願望を叶えてくれる神様です。

当然、「いつでもおぬしの本当の気持ちを叶えてやっておるのだから、[欲しい]という気持ちには、[欲しいという状態]を与えてやろう」などとは言いません。(笑)  あなたが「欲しい」と言ったその対象を無条件に与えてくれます。

神様がいるとしたら、こういう神様であるはずです。
あなたを罰したり、条件を課したり、私たちの意識状態のせいにして望みの対象を与えてやらないような存在が神であるはずがありません。

神頼みをするなら、こういう神様にお願いしてみてください。

無条件に叶えてくれるのですから、”神を信じている”という条件さえ必要ありません。信じていようと信じていまいと(疑っていようと)、お願いしたことはちゃんと叶えてくれるのです。

優しくて無条件になんでも叶えてくれる神様を頼れば、あなたの願望は叶います。あなた個人(アバター)が努力していようと、怠けていようと、マイナス思考でいようと、誰かを恨んでいようと、関係ないからです。無条件なのですから。

神頼み・・優しい神様 | 「人生設定」 Game of Life

Game of Lifeさんには、「する」ことからの解放という記事でもすごく影響を受けたけど、この神様の話が一番好きだし、すべてつながる。

特に「すばらしいな」と思うポイントが2つあって、1つは「あなたの気持ちを誰よりも分かっており、あなたの奥底にある気持ちもすべて汲んでくれて、その上で、すべてを受け入れ、許してくれる」という箇所。「自分自身を本当に理解してくれている存在がある」、という感覚は、なんだか、インナーチャイルドワークを思い出す。

あと、この気持ちをわかってあげる、って箇所。これまで「自愛」というと、ネガ状態の特効薬、みたいな使い方をしてきたんだけど、「大好き~、幸せ」な気持ちも「肯定する」ことって大事なのかな、と思えてきた。

やもりさんの記事にあった

楽しい、うれしい、満足などの幸せな感情は、「そうです、それでいいんですよ。願いを叶えてくださいね」「その道で合ってます。願いが叶う道ですよ」というサインです。

というところにもつながる。

もう一つが、[欲しい]という気持ちには、[欲しいという状態]を与えてやろう」などとは言いません。(笑)、という箇所で、いや、ほんとにさ~、ここって、めちゃくちゃ引き寄せで「絶対ダメ」って言われることだけど、完全に条件付け、嫌な話だよね。むしろ、「不足を感じる」ことよりも、「不足を感じちゃいけない」というところが、プレッシャーになる。

自分の認識の世界だから、わざわざそんな条件をつける神様は願い下げで、不足も含めて、どんな自分でもいい、というのは、ほんとうに楽。

「あなたはそのままでいい」といわれて、「いやいや」となるのは、エゴが不足を抱えて「行動」しだす、ということだし。

「(エゴとしての)自分自身」は、「そのまま」(ありのまま)でいるしかなくて、神様まかせ、ってことだ。

自分が神様、ってことだ。

心地よい実践

ブログであれこれメソッドを書きながらも、どこかの時点からは、「メソッドは、続けること自体が【快】じゃないと続かないな」と思ってた。

この「優しい神様」のメソッド、というか概念は、とにかく楽だし、気持ちも楽になる。逆にこれまでの実践は、まだまだ「コントロールしてる」って要素が残ってたかな、って。

散歩中に感じたのは、「許可を許可する」って、感覚。

いろいろつながる

いろんな概念が集約されていく気がする。

「この期に及んで、神頼みかよ!」みたいなエゴの声もあるけれど、この「神様」という視点は、自愛にもなるし、自己観察にもなるし、

チケットの「関連付けの放棄」にもつながるし、

願望実現に「これでもか」というほど、条件をつけていた自分にも気づけるし、

ずっとわかりたかった、「無条件の愛」ということでもあるし、

やもりさんの宇宙は大甘、願いは叶うのが当たり前」の話にもつながるし、「いいよ自愛」にもなるし、登山家さんの話もつながると思う。

天寿さんの「私達は「安らぎ」を求めています」、もそうだし、

最近読んだ、「叶っているおじさん」の記事もそう。

まさに、「神の完璧」

自愛できてると、エゴも静かになるよね。

「普段の生活の思考の垂れ流し」も、要は、「かまってくれよ;;」ってエゴからの嘆きだし、これまでの別の領域=「静けさ・無」のみの感覚だと、大騒ぎするエゴにひっぱられやすかった。

せき止めていたのは、確かに「自分というエゴ」だった、という気がする。

以前みたいな効果や結果だけを求めたメソッドジプシーではなく、より自分の心地よく感じられるメソッドに少しずつシフトしている感じで、いまのところいい感じです。

なんか、際限なく長くなりそうなので、いったんこれで。

tonpei

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