エゴの却下

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難しいのは

このブログを見てくれているような方は、

・「別の領域」を体験した!

・「認識変更」がわかった!

って瞬間が、幾度となく絶対あると思う。

ただ、それが「維持できない」ってだけだと思う。

自分の場合は、

「認識変更できました!」

 → 死にたくなるぐらいのネガティブな現象化発生

 → 「あ~やっぱ認識変更できてなかったんだ」

というパターンなわけですけれども、その

→ 「あ~やっぱ認識変更できてなかったんだ」

 を、「あ、ただの思考だな」とか「エゴの判断だな」とか、とりあわないだけで、いいんじゃないかと思えてきて。
「認識変更できた」って立ち位置だけをずらさなければ、「わかった!」って気づいた瞬間の全能感や、高揚感に戻る必要もないので。。

「却下」「採用しない」・・・前日からの記事の流れでいえば「そっちを見ない」だけだと。エゴの引力から離れるだけだと。

なんでもいいから、エゴから離れる

これまでも、自分なりの実践の中から、いくつか記事を書いてきたけど、エゴから「意識をそらす」ことがホントに大事だと思う。

最近お気に入りの「全部エゴ」でもいいし、

「ぜんぶ嘘」は、わかりやすかった。

あとは、この記事で引用してるような桑田さんの「明晰夢」みたいな表現も、エゴから離れやすいな。

一方で、いろんな達人さんがいう「錯覚」って表現は、自分にはなかなかピンとこなかった。

番外編としては、これもあり。

とりあえず以上なんだけど、とにかくなんでもいい。

エゴから離れる、あたらしめのネタとして「ゼロポイント」と「知覚不全」の参考記事を。

ゼロポイント

エゴの逆襲にあっても、スーハーの幸福の位置に戻れます。
でも、それって完全ですが、まったくニュートラルでどっちにもなんにでもなれます。

たとえば、ぼーっとしてたら音がします。
カツカツ、という固い音です。

そこで反応します。
「おう、これは最近ずっと悩ませてくれているあのババァの足音じゃ。相変わらず猛々しい。
このぶんじゃ、きっとまた顔を合わせたとき……」

そこでうわあああ!となりました。
また世界作ってるじゃないか!

こうして作った世界を基にして、ここから逃れるための方法を必死に考える。
これが以前の願望でした。これじゃなんにもなりません。

音がしたとき、その直後に「この音は?」と認識するその前の一瞬、
何も起こってない何もないその空白だったんです。すべてがそこにあるんです。

何かが起こるのは刺激であって、いいと感じることも、悪いと感じることもある。
でもその源はひとつに集約されてます。

自分でなにかできるとしたら、何かを作り出すその瞬間に嫌な反応を
引き起こす習慣を消すよう、そこに意識的であろうと思いました。

~略~

これまで自分は、108さんのいう「今何も起こってない」がよくわかってませんでした。
(包丁事件の記事にある記述です)。

「エゴとは違う領域」は理解できるけど、そこに何もない、とは感じられなかったのです。

でも、本当にその静寂の中に静寂を探そうとすると、ゼロポイントがあるのがわかったんです。
そこですべてを作ってるポイントが。

そこにはなにもないです。
それでいながらすべてを作り上げることができる可能性だけの空間です。

それは、自分の内面を見つめれば、理解できるものだと思います。

その空間に、目の前のものに反応したことを投下すると、瞬間にそれが現象化されます。
これが人が見ている世界です。それを「そういうもんだ」と記憶します。

この記憶を基にした現状の再生が、無意識に行われ続けると、変化のない世界が永遠に続くのです。
もちろん願望などかないません。そこで、今を否定しないとか、認めるとか、セドナとかポノで、
無意識の望まないこと再生に歯止めをかける。

いい気分でいろ、とかポジティブ信金とかも、そういうことだったのかとつながりました。
108さん、本当にありがとう。

「許すとやってくる」のではなく、すでに許したものが、有る | ザ・チケット板☆備忘録

自己観察さんも、究極まとめ的なところで、「ゼロポイント」に触れていた。

で、今回あなたが感じた「背景らしき意識」というのは、もっと根源的な意識のことです。
絵画という美しい比喩を拝借して説明すると、あなたは今まで絵の対象物=自分でした。
そこに気に入らない絵が描かれていることを嘆き、どうにか書き換えようと頑張ってきたと思います。

でも一部を書き換えようとしても、ほかとのバランスが取れなかったり余計に酷くなったりして、
なかなかうまいこと書き換えることは難しかったと思います。
それはあなたが絵の対象物になりきっていて、全体の構図を見ることができない
位置にしかいなかったせいです。

そしてあなたはふと、後ろのほうに背景らしきものを見つけました。

対象物にとって背景とは何でしょう。
すべてを支えてくれる土台、それが「在る」からこそ絵として存在することができます。
そもそも背景となるものが存在しなければ、私だと思っていたものも世界も
すべて存在することはできません。この背景が、原初の「在る」です。

自分自身だと思っていた、絵の具で描かれた色彩を消し去ってしまえば、
そこは何も描かれていない、まっさらな状態になります。
これが空であり、無であり、ゼロポイントであり、そして「私は『在る』」です。

背景のみのキャンバス「何も無い状態」が在る。それが自分であった、という気づきです。
「無」でありながら「すべてがある」という矛盾が同時に存在する根源です。

絶対的に「在る」上で、無である。
「在る」が在るからすべての可能性が存在できる。
絶対的な「無い」というのは存在できないのです。

根源からの視点で見ると、自分が存在することさえ気づいていなかった意識が、
突然「あ、自分在るじゃん!」と気づけた原初の気づきです。

その意識が「自分が在るじゃん」と自覚したからこそ、そこから思いを発し、現象化するという
「現実をを創造する」という感覚が生じたのです。すべてはそこから起きています。

自分が無、ゼロだと悟ると、そこに何が描かれようが自由でいられます。
不安や苦しみが描かれていても、あなた自身はその描かれた絵ではなく背景そのものですから、
対象物から離れて「在る」意識(背景)であれば、そこは「すべてがある」場所ですから、
そこに調和して「在る」ことで、おのずと調和した現象が生じます。

描かれている対象物は毎瞬変わっていきます。楽しいときもあれば不愉快なときもある。
そのすべてを受け入れる場所に在るからこそ、その対象物を変えられる力があるのです。

自己観察式53 不動の意識そのもので在ること。そこが全ての創造の源です | ザ・チケット板☆備忘録

知覚不全

「知覚不全」については、108さんがよく使っていた言葉かな。U4さんも。

説明については、この記事が一番わかりやすいかも。

これが

「不足を疑ったのに、現実が変わらない」

という人が陥ってしまっている状況です。

なので、私達の感じ方としては

「不足が一瞬消えたように感じて」

(荷が下りた感覚に一瞬なって)

「やっぱり不足があるように思う」

(やっぱり不足に飲まれる)

となるわけです。

あり方の通りのことが現れていますね。

この状況を打開するためには

どうしたらよいか。

それが、

108さんや他の達人さん達がしきりに言われている

「叶えるためにやらない」です。

「不足を消そうとしない」です。

「単に疑う」です。

そしてそれらは同時に

「知覚不全の立場をとり続ける」ということです。

「知覚不全の立場をとり続ける」人にとっては

「現実が変わらない」ということが

「問題」になってこないんです。

なぜなら

「不足を疑った」あとに映る

「現実」もまた

「知覚不全の結果」だからです。

信じるに値しないもの、だからです。

なので、それを根拠に

「問題」を提起する必要がなくなるのです。

ちなみに、

「知覚不全の立場をとり続ける」人にとっては

「現実で何をすべきか」ということも

「問題」になってこないんです。

なぜなら

何かをする場である「現実」もまた

「知覚不全の結果」だからです。

信じるに値しないもの、だからです。

「知覚不全の結果」なのだから

その「知覚不全の結果」における

色々な「決まり」「ルール」とされているものも

「問題」になってこないんです。

その「決まり」「ルール」が展開される、

「現実」自体がそもそも、

信じるに値しないもの、だからです。

だから、ただただ、

自分の「充足」「楽になる」という

「実際の有様」を、あらゆる基準とするのです。

これこそが「信じるに値するもの」だからです。

「不足を疑ったのに現実が変わらない」人へ – 不正プログラムからの脱却支援

「無」の領域

他にも「自分の中心」に帰る、とか、「インナーボディー」を感じる、とか、こまかいやり方はいくらでも出てくるけど、エゴが激しいときは、無理にポジティブにならず、とにかくその場から、逃げる、離れる。とにかく「無」を意識することがわかりやすいんじゃないかと思ってます。

自己観察さんの「エゴが出てくる以前のところへ行く」って表現も好き。

そのうち少しずつ、エゴと距離を置けるようになり、「意識は自由に焦点をあてられるんだ」ってことが、体感的にわかってくるんじゃないかと。

追記

そうそう、エゴと距離をとるのに、一番難しかったのって、「からだの不快感」だったんだけど、こまけえさんが、小鳥の鳴き声、ってかわいいたとえであっさり論破してた。

内面の思考や感情も本質はそれと同じなんです。小鳥の泣き声と同じなくらい、自分じゃどうしょうもないですが、それ故に自分とは本来なんの関わりもないものなんです。小鳥のとの違いは、音の出所がちょっと胸の方から湧いてくるってだけです。肉体の内側から湧いてくる感じがするから、自分の声と勘違いしちゃうんです。

思考(感情)と小鳥の鳴き声の違いは?|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

tonpei

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