無用な判断力

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ここ最近問題の根本のように感じていたこと

  • 思考の無意味さ
  • 思考は当てにならない
  • 思考と感情も自分ではない
  • 不安があるから、思考(理屈)で埋めようとする

そんなことがわかっているはずなのに、

  • 願望が実現することを阻害する、この思考はなんだ?
  • この決めつけはなんだ?
  • そんなに大事にするほどの「感覚」か?
  • 思考の判断の根拠はどこにある??
  • そもそも「判断」とはなんなんだ? 
    あの「自分の直感」とか思っているのは、誰なんだ?

みたいなこと。

U4さんがちゃんと書いてくれていた。そう、まさにこの「判断」が問題なのよ

これは結局、すべて自分からのプレッシャーなわけだよ。
親や周囲からかけられるていると思い込んだ結果、かけられたプレッシャーと
自分からのプレッシャー、つまり全て自分の判断力によるものだから。

だから、簡単にいうと「判断しない」って事になる。

その判断力はあなたの味方ってわけじゃない。そうであるにもかかわらず、
あなたはその判断力に今なお同意し続けている。

「そうだ、そうだ」って感じで、その判断力にあなたの信仰心を注いでいる。
その判断力にあなたの力を与えている。その判断力にあなたは全幅の信頼をよせている。

何度もいうが「その判断力はあなたの味方ではない」

例えば、金に困っている人ほど「お金なんて十分に手に入りますよ」
「お金が手に入る事と労働は関係ないですよ」なんてレスを貰ったら
「嘘くせええ」と言い返したくなるだろう。

まるでお金が簡単に手に入って欲しくないかのように。
「んなわけねぇだろ」と、絶対に論破してやるぐらいの気持ちになるだろう。

おかしいね?欲しいはずなのに、簡単に手に入って欲しくないかのようだ。
(続き)

なぜなら、その人の中に「そんな事許されるわけがない」という信念があり、あるいは
「十分に労働を提供した場合に限り、お金を受け取ってよい」という信念があり、
動的にはそういう判断が下されるからだ。これが自分に許可していないという事だ。

「俺はお金が欲しいのに、お金が手に入ることを許可しないわけないだろ」と思うかもしれないが、
お金を欲しがる一方で相反するその「判断力」にその人の全幅の信頼を注いでいる限り、
その人の信仰心を預けている限り「ない」という経験をする事になる。

「ある」は勝手に起きてくる。

「ない」はあなたがその判断力に力を与える事によって、敢えて経験している。

これが充足をせき止めているという事だ。

あるいは「その判断力」はあなた自身をも容赦なく裁くだろう。
おかしいね?あなたの味方であるはずの判断力によって、あなたが不愉快な気持ちになるなんて。
あなたは自分の事をその判断力で守ってきたはずなのに
自分までその判断力でストレスを感じるハメにあうなんて。

この判断力を自分に向ける事をやめるのが「責めない(自愛)」という事。

以上のように、その「判断力」があなたの味方ではない証拠が十分にあがっている。
それでもあなたはなお、その「判断力」に全幅を信頼をよせるだろうか。
あなたの信仰心を注ぐだろうか。あなたの力をそこに与えるだろうか。

ネガティブな気持ちをちょこっと無視したつもりになったところで
依然として変わらないだろう。あなたがその判断力とガッチリ手を組んで
「そうそう」と言い続ける限り、採用し続ける限りは。
その判断力にそった現実が展開するだけだろう。

つまり、行動しない限り何も起こらないままであり続けたりだとか、
変わらないなぁと感じるような展開をそのまま経験し続けるだけだろう。

U4式17 判断を緩めれば 自分を許せるようになり(=自愛)充足を知覚しやすくなる | ザ・チケット板☆備忘録

自分と一体化していたエゴ

U4さんが書いている「この判断力を自分に向ける事をやめるのが「責めない(自愛)」という事。」にはちょっと同意しないんだけど、逆に言えば、自分を責めているということに気づかないほど、我が物顔して「あなたのために判断してます」というエゴがいる。

ロジックで考えるにしろ(思考で判断)、なにかネガティブな気持ちを感じるにしろ(ハートで判断、的な)、「判断」は手放していないことに気づいた。

エゴとしての自分の本質

もっと根本的には、「願望が実現した」を判断しているのが、誰か、ってことにもなる。

常に現実を把握しながら、「願望が叶っているかどうか?」「このまま願望が叶いそうか?」、逐一チェックしている仕組みがある。いろいろ観察、客観視しているようで、最終的に判定しているエゴがいる。

「思考(頭の中のおしゃべり)」や「感情」はわかりやすいし、手放せている感覚もあった。だけど、そもそも、自分自身にプログラムされているような、大前提としての判断を手放す、というところまでいけていなかった。

むしろ、一時的な「思考や感情」よりも、「判断」とその「基準」自体を「自分」と思っていたのかもな。

「このメソッドは正しい」「この考え方は間違っている」このブログであれこれ書いていることも、そう。だから、こないだのこまけえさんのまとめみたいに、「こまけえこたぁいいから!」が、大事になる。

思考や感情自体に力はない。んだけど、その自動的に処理される「判断」は力を持っている。

tonpei

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