「叶っている」がすべて

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自動運転モードへの挑戦

前もあったけど、現象化が加速すると「これならもっともっと!」みたいに、エゴも加速してしまう。現実での期待が高まりすぎて、結果、不足のエゴにはまり込んでしまう。

ちょっと、反省。

充足→現象化→現象化みて充足→現象化・・・の自動運転モードになれるかなぁと思っていたんだけど、そもそも現象に一喜一憂しちゃダメっぽい。

過去記事振り返り

そんな視点で、自分のここ最近の記事を振り返りつつ、過去の引用記事で、今となっては「明らかにこれは違うな」ってのを削除してた。

違うというか、自分に合わない。

やっぱり、自己観察さんの後半の記事は合わない。すごく内容的には惹かれるんだけどね。あの方は、本当に「悟り」の領域なんだろうと思う。自分の場合、「悟り」を目指すと、かえって「エゴ」が激化する。まるでエゴが自分の存在を消されることに大抵抗するように。そして、当然のようにピクリとも動かない現実。いやむしろ「悟ってるなら、平気ですよね?」という勢いで悪化することがほとんどだった。

それでも自己観察さんにこだわってしまったのは、「別の領域」とか「認識の変更」って「概念」がよくないのかも。どうしても悟りのイメージがあるというか、願望を叶えるには、「悟り」が必須って、無意識のうちに思いこんでいたような。

その点で、こまけぇさんは「悟り」よりも「現世のご利益」を重視してくれてるから、すごく実践しやすいし、体感も現象化も実体験が伴ってくるから、わかりやすい。現実が好ましいものになってくるから、エゴも満足して、おとなしくなりやすい。

そうやって、引用記事の整理をしながら、投稿時の自分の思考の部分については、極力残しつつ、当時の自分が、どういうことを考え、何がきっかけで変化したのかを書き綴ってきたつもり。でも、最近はエゴエゴな自分に、戻れなくなりつつある。

なんであんなに苦しんでいたのか、もうわからなくなりつつある一方で、過去の自分が、エゴと一体化して不足を選び続けていたのは、すごいわかる。まぁ選ばされ続けていた、ともいうけど。

認識変更と現実

認識の変更=自分が意識であることが腑に落ちること

すべて叶っている世界の中で、あとは、何を選ぶか? ほんとそのまんま、なんだ。

「現実」は、ホントどうでもよくって・・・どうでもいいというか、どのみち「幸せ」を感じられるのは心の中なのだから、現実に左右される必要はないよね。

自分にピッタリの美味しい料理を自炊できるのに、なんでわざわざ外に出かけて、うまいまずい、といいながらいろんなお店で外食するのか?

しかも、自炊で「おいし~」って幸せを味わっていれば、外の店もいつの間にか、美味しいお店ばっかりになっている、っていうのが基本理論なわけだから、外側の新店舗情報に振り回されず、内側の充足に向かうべきだよな

映画のたとえ

いかに「心の中」で、観たい映画を見続けるか?というのが実践の肝だと思っているんだけど。

「映写機とスクリーン」の例えで、「本当の自分が映写機」だと思うと、どうしても自分としてはそこに「コントロール」の意識が入ってきてしまう。
映写機であるならば、結果はもちろん、1つ1つの「シーン(=現象)」をコントロールできると感じてしまう。
そして、1つのシーンに過ぎない現象に対して、一切の「不快」が発生しないようにコントロールしようとして、いつの間にかエゴにすり替わってしまう。

それよりも、「無限の映画があるシネコン」の中で、ラストシーンが決まっている、ただ観たい映画を選ぶ、という感覚。
1つ1つの現象は、何が起こるかわからないし、制御できない。中には、不快な現象も含まれるかもしれない。でも、結果的に、最終的に「満足」「幸せ」を感じられる。だって、「内面」が「満足」で「幸せ」なのだから。叶っているのだから。

自分にあった実践

前記事と反対っぽい気がしてきたけど、、表から見るか、裏から見るか?みたいな違いだけで、本質は同じだと思っていたり。

達人さんの理屈を理解しようというよりも、「このほうが自分にとってやりやすい」という実践に向かっている。いや、うそ。こまけぇさんの記事は相変わらずガッツリ読んでます。特に読者の嬉しいご報告。

tonpei

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