人生の主人公は「自分」ではない

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実践上の疑問

基本的には、よっしーさんの「エゴに気づく」を実践してて。

現象化はいろいろしてるんだけど・・・なんというか、気持ちの悪い現象化の仕方というか、エゴが「ないないないない!」と一人不安にまみれて悲観して散々引きずり回された後に、「なんだ、結局問題なかったじゃん。うまくいってんじゃん」という感じなので、なんだか疲れる。エゴが実現に抵抗してる、ってことなんだろうけど。

なんっつーか、もうちょっと気持ちよく現象化してほしいんだけど・・・と思いつつ、自己観察さんやこまけぇさんの過去記事を読んでた。

どうにも自分の記事の中でスッキリしないのは、いわゆる悟りの方向である「自分=意識」系の記事と、引き寄せの本流である「イメージングで既にあるを実感」みたいなところのバランス。

なんというか、悟り系の達人さんの言葉をうのみにすれば、「自分=意識を感じていれば、勝手に幸せがあふれてくる」みたいなところなんだけど、たしかに、意識に浸っていれば「安心」は感じられるけど、「充足」って感じではなく、もっと静かな感じだし。

でも、「安心してれば大丈夫」って人がほとんどなんだけど、意識状態の安心感は、まだ慣れてないこともあるかもだけど、ほんとに繊細な感覚というか、ちょっと強めのネガティブがくると簡単に吹き飛ぶ。キープするのが難しい。

なので、やっぱり、「既にある」や「イメージング」系の、「充足」を感じることも、非常に大事なんじゃないかと思うわけで。

直近のいいまとめ

そんな時、こまけえさんのコメント欄で見つけた、「くみさん」という方のコメントがすばらしく、直近の自分の記事でまとめたかった「意識」の話と「願望実現」の話を書いてくれてるなと思って。

全部エゴの言いなりで
怖いから辞めとけ
信じたら痛い目に合うぞ!
その一方で、早く何とかならないだろうか?
在るなら早く変われー!
と諦めきれない自分
まんまと、その世界にどっぷり浸かっていました。

全部自分が何を思ってるか?
何をどう認識しているか?
桑田さんの言葉を借りると
時計を見れば時間をつくり
時間をつくれば過去、現在、未来をつくり
他人が絡めば あの人をつくり
あの人は〇〇だから嫌なんだよなー。
みたいな表現をされてたと思いますが
全部自分(エゴ)が認識してますよね?

全ての物には持ってる、持ってないとか
在るとか無いとか
居るとか居ないとか
そんなものは最初から何も付いてなくて
自分が不確かな過去の記憶を辿り
持ってる持ってないと判断してるだけなんです
そして見事にその通りになってます。

全てはただ在る
無いと感じてる幾つかの願望より遥かに在るに囲まれてます。
ただ目の前に在るそれらは願望とは思ってないので
在るけど願ってねーし!ってエゴが言ってるだけです。

思考、感情、心は目に見えないし触れないけど確実に在ると思っているのに
願望だけは偽物扱いして
無い!にしちゃってるので
無い現実が即座に反映しています

そして苦しい…何故か?
それが嘘だからです。
全て既にあるので無いって思うと苦しいし辛いんです。

不足は存在しないし存在出来ないので
不足を感じると嫌な気持ちになります。

自分が世界なので自分の中に在る物は必ずあります
そして自分の世界を見て欲しくなり好きになり
願望になった途端、分離するので
目の前の世界から消えてしまうんです
最初は本当に怖く感じるかも知れませんがエゴの言葉はスルーして
自分が決めた事が真実なんだと
安心を感じてみて下さい。
その安心を感じる事が出来るのは、繰り返しになりますが真実だからです。

https://komakeekoto.com/michael/#comment-13181

衝撃の2記事

で、くみさんの別の記事もさかのぼって読んでたんだけど、そのうち、「ぶらぼー」さんという方のコメントに、衝撃の一文を発見してしまい・・・いや、なんか、すごい。

>現実にフルボッコにされるのが辛くて辛くて、
これ辛いですよね。このカラクリが破れないと、地球上で遊ぼうと思っても、全ての人にもれなくプレゼントされちゃいますよね。

元を辿ると、ボッコボコにしてくるエネルギー源は自分なんで、自傷行為とも言えますが。
フツーの人は、目を開き、視覚情報が日々の生活の中心ですよね。で、その見ているものはと言うと、自分がその時注意を払っている、フォーカスしているもの(中心視野にある対象)ですよね。

で、自分がそこ(見ている世界)に、どのくらい登場するかと言うと、歩く足先、キーボード叩いたり・包丁使ったりしている時の手の甲、ぽっちゃりさんなら出っ張ったお腹などが、周辺視野の一番端っこに、ちょこっと出てくるだけ。

衝撃の事実ですが、自分の人生の主人公は「自分では無く」、意識を注いでいる対象で、自分はエキストラにさえもなってない場面がほとんどなんです。(時々セリフあるちょい役くるけどw)

そのいちいち注視している対象に自分のエネルギーを注ぎ、そのエネルギーでもって、自分が自分をボッコボコにしている。
年齢を重ねるほどに、どんどん見ている世界が大きく強くなって、私を圧倒し、私をどんどん萎ませていく。

人の世界は「主客転倒・主従逆転」しているので、見ている世界がパワフルで、自分はと言うと自分が踏み込んだアクセルなのに気付けず、困ったときに慌てて急ブレーキ踏んでるような後手後手のあたふた状態。
目をつぶって、体内の内圧を・内臓の営みを感じるように歩いて生きていくことで、主人公としての自分をとり戻すことができるのでしょう。
自分を感じる一番が「気付き」であって、どんなメソッドも、気付きのための補助輪みたいなものですね。

https://komakeekoto.com/keijiban/#comment-5078

んでもって、自己観察さんの記事も読み直していたんだけど、改めて「あちゃ~忘れてた」と感じた記事。

>エゴに巻き込まれても、意識があれば大丈夫とは、エゴによる解釈に判断を下さないという事でしょうか?

「意識があれば大丈夫」は「気づいていれば」という意味で使われてますか?
であれば、判断以前に、鮮明に気づいていればそれらの錯覚に意味がないことがわかるってことです。
怖い映画を見て巻き込まれていても、ふと我に返って映画だと思い出すような感じに近いかと。

エゴ(感情・思考など)はあなたの意思や思考で干渉できるものではないです。

エゴも思考、感情だし、どうにかしようとしてるものも思考、感情ですよね。

あなたは思考が出てくる前にそれを制御できると思いますか?
出来ると思ったとしたら、「いい思考だけをしよう」という思考を出す前に
それを自分の意思で呼び出すことが出来ますか?

または、出てきた思考を後から否定することで、出てきたことをなかったことに出来ますか?
出来ると思ったとしたら、一旦出てきた気に入らない思考と、それを否定した思考、
それらの影響も全く受けずに、元の自分に戻ることが出来るのでしょうか。

エゴは単に出てきたものでしかなく、出てきたものをどうにかしようとするのがおかしいんですよ。
出てきたものに後から手を加えようとするんではなく、出てくる以前のところに行けばいいだけです。
エゴに構っても何にもならないからあってもいいと放っておくしかないんです。

エゴはどうにも出来ないのでそのまま放っておくしかないですが、
「気づいている意識」から見れば、あってもかまわないものです。
意識からすれば、エゴが何を訴えてこようと、既にそれが幻想であることを気づいてるからです。

思考で「あってもいい」と言い聞かせてもどうしようもありません。
幻であることを気づけないものが、「あってもいい」といってもまだ脅威的なものに見えてるでしょうから。

「もっともっと」という声、それを裁くこと、それらが全て幻であることに気づけない領域にいて、
何かを判断しないようにしようとか巻き込まれないようにしようとか、それは無理なんですね。
その領域を出ることでしか、幻であることに気づけないんです。

思考が嫌だ、巻き込まれて苦しい、そういい続けてもどうしようもありません。
それは幻だからどうにもできないものなんです。
幻の中で幻をどうにかする、そんなメンドクサイことをする必要もなく、
ただそれが幻であることを気づく。それだけのことです。

自己観察式73 気づいてる意識は、エゴの訴えが幻想であることに気づいてる | ザ・チケット板☆備忘録

いや、たしかに、こまけえさんとかも、エゴと一体化するとコントロールできない暴走車、みたいな記事を書いてくれてたけど。自分の過去記事でも「自由意志はない」とかけっこう書いてきたんだけど、どうにも「ネガティブはなんとかしなきゃ。コントロールできるはず。」と思っていたわけだよな。

(まぁ、そう思ってしまうのも、自由意志がなかったわけだけど)

エゴが剝がれてくる

特に、直前の2つの記事

・人生の主人公は自分ではなく、意識を注いでいる対象

・エゴ(思考・感情)は、あなたの意思や思考で干渉できるものではない。

このあたりが、自分のあたまをぐるぐるしていて。

全部が、自分。

自分とは、「自らを分けたもの」。まさに、分離=エゴ。

「全部が、わたし」みたいな言い方のほうがいいかも。

思考感情も、自分の一部ではあるけれど、自分が選んでいるもの・・・選ばされてきたもの。

思考感情を「自分のもの」として、意識を注いでくれば、そりゃ、意識=自分=エゴ、として生きるしかなかったわけだし。さらに、「思考感情は、”意識”でコントロールできるもの」という概念を握りしめていれば、どうしたって、思考感情のエゴの世界で、バタバタせざるを得ない。

だから、いろんな願望実現メソッドでも、「思考」よりは、「なった」ときの、「在り方」やら「設定」やら「波動」を、自分の望むものに合わせよう、というアプローチになるわけで。

なので、冒頭の自分の疑問に対する回答としては

「エゴそのものは、コントロールできない」

「コントロールできるのは、意識の焦点のみ」

「すべて叶っているんだから、見たいものを見よう」

「本当に見たいものは、感情がナビゲーションになるよ」

「ないは嘘だよ」

ということになるわけだ。

悟りなのか?引き寄せなのか?みたいな理屈はほおっておいて、

シンプルに「意識」で「充足を選ぶ」

でいいわけだ。

tonpei

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