既に愛されてました

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これはもう・・さすがに、最終回なのではないか、という気づき。

程度の差はあれ、別の領域というのは、エゴを超えた「さとり」の領域に突入することだと思っていたんだ。あるいは、「自分自身が愛そのものだった」みたいな気づきとか。
で、一回そういう認識になったら、もうエゴの認識に、戻らないものだと思ってた。

で、これまで何度も何度も、そういう状態にはなって、でも、結局、現実がまったく変わらない、いや、それどころか、カツーンと意識が変わったときに限って、現実的にはかなり悪化していったから、「やっぱり、これじゃないかも・・・」って、エゴに戻っての繰り返し。

とにかく、自分の場合は、地上最強レベルにエゴが強かったので、「エゴの却下」が、まったくできなかった。

さみしい気持ち

あんまり、願望実現系のブログには書いていないことだけど、何よりも自分がきつかったのは、願望実現云々より、「さみしい」って感情だったんだ。

「愛されていない」っていう、感情面の苦しみ。だから、自愛をする

でも、自愛をすればするほど、自分が愛されていないことが強調されることになり、苦しみばかりが増える。じゃあと思って、自己観察しようにも、数日しか持たない。

それが、この記事でふっとんだ。

自分を愛そうとしてくれているのは誰なのか

自分の全てをありのまま許してくれているのは誰なのか

自分のどんな側面でも受け入れてくれているのは誰なのか

自分のために何かを成し遂げようとしてくれているのは誰なのか

お気づきだと思います。

他でもない、自分ですよね。
全部、あなたがあなたのためにおこなっていることです。
あなたはあなたを愛そうとし、悩み、ここにレスを残してるし、これからもあなたは
あなたのために何かに悩み、何か辛いことでも乗り越えようとすると思います。
そして今までもそうでした。

それを考えてみたら、充分なほど愛されていることがわかりますよね。

自分が自分を変えようとしていることは他ならない自分の為であり、
言うならば、自分への愛そのものであります。

自分がどれほど自分の為に尽くしてきたか、尽くしているのか、知る必要があります。
今までの悩みは、自分が自分を想うが故であったのです。
僕たちは生まれてこのかた、愛を欠かしたことは無かったんです。
さらに言うなら、僕たちは自分の為に、愛するが故に、ここに存在して何かと動きまわっているのです。

愛という言葉は崇高なものではありません。
ここに在ること=愛、であります。
まさに今、愛されているし、自由を許されています。
それを知ることが、つまりは自愛でありました。

許しても許せた感じがしない。自分を愛することがよくわからない人へ | ザ・チケット板☆備忘録

ずっと前から知ってる記事で、頭ではわかってた。このブログの中でも何度かリンクはった気がするし。でも今回は、あらためてこの記事を読んだときに「世界から愛されている」って感覚が、ふっと自分の中に入った。いろいろ巡り巡って、何かスイッチが入る準備ができていたのかもしれない。

決定打

そんなスイッチが入った段階で、1時間もしないうちに、本願に関係する「ありえない」ことが起こった。出来事自体は大したことないかもしれないけど、その偶然は奇跡を信頼するに値するものだった。

その現象化のおかげもあって、今回の決定的な違いは、「エゴが納得した」ということ。

わざわざ、自分を愛する必要はなかった。

「既に愛されている」んだから、やることはなかった。

「受け取るだけ」でよかった。自分で何かする必要はなかった。

もう「愛されている」んだから、これ以上愛されるために「やる」ことがなかったというか、むしろ、「やる」からわからなかった、気づけなかったというか。

各種メソッドなりブログを読むのも「愛されていない」と思っていたから、から読んでいたわけで。

こまけえさん

今月は、こまけえさんの全記事を読み返して、大事なとこ印刷して、ひたすら読み返していたけど、結果的には、自分が「大事だ」と思っていた記事はあんまり関係なくて。いま思い返すと、一番関連性の高い記事はこれ

でも振り返ってみてください。そのエゴと言われる存在は何も道に外れたことはせず(前科のある方がいればすみません)、ただ自分や周囲の幸福のために学び、汗をかき、努力をしてきました。その努力がうまく出来なかった人でさえ、堪え性のない自分の中で懸命にもがいて生きて来たのです。それなのに結果(望んだ現実)がついて来なかったという一点のみでその生き方を否定し、私たちは日頃からエゴを虐待し続けているのです。それも無意識に。

そんなエゴの足跡を今一度、伝記を読むように改めて客観視してみてください。そこにはエゴと言う名の主人公が、ささやかな人生の中で不器用だけれども、健気に、必死に頑張って来た姿が描かれ、必死に頑張れなかった人でさえ、少なくとも自分を幸せにしたい(幸せになりたい)との切実なる意志あったはずです。そうした思いを抱え、もがきながら日々を生きて来たエゴと言う存在を顧みれば、決して貶すに値するものではなく、むしろ愛しさしか湧いてこないはずです。それがあなたの化身なんです。身近であり過ぎるために、そのありがたみ、尊さ、愛しさに私たちは気づけないのです。

「なる」ことが難しかったり、自分を好きになれなくてもいいです。ただ、願望を追う余りに蔑ろにされてきたエゴに気付き、その頑張りを労い、褒めて、感謝するだけでいいです。エゴは斥けるべき外敵ではないのです。あなたのために不足の世界でずっと戦ってくれていたのですから。なので、もうそろそろ「矛を収めていいよ」と優しい言葉をかけてあげませんか? それだけでスピ的な在り方や立ち位置はずいぶんと変わって来るかと思います。

そして、その「がんばらなくてもいいよ」とのスタンス(在り方)は現実として跳ね返って来ては、「がんばらなくてもいい世界」が展開していきます。なぜなら、ほとんどの人はエゴに本当の自分が乗っ取られているからです。つまり「エゴ=世界(=自分)」になっているので、それを逆に活用する形になるわけなんですね。まあ、これも結局、自愛の一言に帰結するわけですが(汗)。

エゴに勤労感謝する|こまけぇこたぁいいから、願望実現しようぜ!

こまけえさんの記事の中でも、ちょっと異色な類だとおもうし、「こんなの関係ねえよ」、と思っていたんだけど、「エゴとの和解」みたいな部分で、すごく納得。

やることのなくなったエゴは、「おつかれさまでした!」って。

納得したら、エゴは勝手に引っ込んでいった。

万人に共通するアプローチなんて、確かにないのかもしれないな。

あ、あとこまけえさんに関しては、「こんだけの質と量の記事を、よくも無料で公開してくれているものだ」って、日々思っていたから、そういうふうに、自分の世界に感謝できていたのは、気づきのきっかけになったかも。

これまでの意味は?

これまでの10年以上のチケットや潜在意識探求に意味があったかと言われると・・・うーん、、直接的にはなかったような。何をやっても「ない」が出発点だったから。

よくある「叶っていると思う」状態は、「叶っていない」
「幸せな気分でいよう」も「幸せでない」というわけで。

でも、あるとしたら、「何をやっても変わらない」ことの何千の繰り返しで、限界値を超えた、というか、「もうこれ以上、エゴでがんばってもしょうがない」って割り切りと、「でもそれでも、よくもここまでやってきたよなぁ」という部分は、今回の後押しになったのかもしれない。

また、ブログタイトル変えよ

「実は愛されてました」とかがいいかな。

tonpei

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