すでにある

最終更新日

Comments: 0

例えばニートのAさんがいたとして、そのAさんが車が欲しいと思ったとしても、自分はニートだという記憶から「あー、俺にはとてに手が届かない」という価値判断をしてしまい、それが世界に反映されるわけです。

しかしここでAさんの頭から記憶を削除してしまえば、「買えない」という価値判断がなくなります。では「買える」という価値判断になるのかと言えば、厳密にはそうでもなく、「欲しい」という念(意図)みたいなものだけが残るわけです。ではなぜ欲しいと思うのかと言えば、運転した時に満足感(充足)が得られるとわかっているからなんです。すなわち、それを既に体験しているんです。なぜなら、体験していないとその充足を知れるはずがないからです(記憶=エゴはこれを妄想だとしか認識できません)。つまり「欲しい」という念があるということは、既に「充足(既に体験)」が在るということと同義で、そしてそれを「どこだよ? 見えねーじゃねーかよ」と否定してきた記憶(エゴ)もいないがために、それがダイレクトに世界に現れることになります(自分が世界なんで、叶った状況そのものになる感じ)。

どうしても感覚的な話になると、なかなか言葉のチョイスが難しく、禅問答のような迷路にはまっていくのですが、実態はそう複雑なものではなく、自分(記憶)がいなけりゃ、不足のない思いだけが残り(充足)、それを否定するヤツ(エゴ)もいなくなるから、充足は在るしかないよねという、構造的にはごくシンプル(?)なものです。とにかく記憶というものを意識的に排除しながら(=今にある)世界を眺めていけば、今までの価値判断が必ずブレてきて、体感も起こりやすいかと思います。

https://komakeekoto.com/akachan/

tonpei

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

コメントする